結局地元にKOHHがやってくる

先に書いておくと僕は評論家でもなんでもないし、批評などするつもりはない。これは僕が敬愛するアーティストへの一方的なラブレターみたいなものだ(No homo)。

僕が思うKOHHの魅力とはその貪欲さと純粋さにある。そして自身が育った東京都北区王子への地元愛と、世論も予定調和もクソ食らえと言わんばかりの、正直な言葉にある。30年前、甲本ヒロト氏がTHE BLUE HEARTSというバンドのメジャーデビューシングルに綴った詞を引用して形容するならば、そこにはドブネズミみたいに美しくて、写真には写らない美しさがあるのだ。「リンダリンダ」は誰でもないし、誰もが自由に歌えばいいと甲本ヒロト氏はインタビューで語った。THE BLUE HEARTSとKOHH、30年の時を越えて、僕にはこの二組に共通点みたいなものがあるように思う。誰かが決めたルールや倫理観にとらわれず、爽快な言葉で自由を謳歌するKOHHは、鬱屈で窮屈な風潮が蔓延する日本のミレニアル世代にとっての、THE BLUE HEARTSなのかもしれない。と。

適当な男JUNJI TAKADA 他人は気にしない生き方
適当な男JUNJI TAKADA Flyboy自由気まま

KOHH JUNJI TAKADA

KOHHを初めて聴いたのは、弟が聴いていた「JUNJI TAKADA」だった。それまでの自分が聴いてきたラップミュージックとの明らかな異質感に、最初は拒否反応さえあった。弟はなぜ、こんなにも稚拙で突拍子もないラップを聴いているのかと、甚だ疑問だったことを告白しておく。だが聴いているうちに、いつしか虜になっていた。KOHHという人間の感性は今でもこの曲に集約されているのではないだろうか。というか、一貫して変わらないJUNJI TAKADAスタイルがKOHHなのである。

日本におけるラップミュージックに限って、その魅力とはなにか。そこに込められたメッセージ性は人の価値観に大きな影響を与え、バイブルに成り得る。韻を巧みに踏んだ歌詞は芸術とすらいえる。そういった僕の小さなものさしを、軽々と超越していった存在こそが、KOHHというアーティストだった。当初感じていた違和感も、今にして思えば自分の音楽観全てをひっくり返すKOHH の登場が、僕にとって完全なキャパオーバーだっただけなのだ。

言葉というのは便利なもので、このように、「KOHH最高(本人曰くKOHH最高とか言うヤツは最低の間違い)」という一言を、何百字、何千字にしていくらでも飾り付けることが出来る。とかく日本語に至っては、音の数もアルファベットの倍以上存在する。「あかさたなはまやらわをん」に加え「わんわん」「がやがや」など擬音すら言葉にしてしまう繊細な感性が日本語にはある。その日本語を極端なまでにシンプルに研ぎ澄ませ、感情のままに、欲望のままに吐き出す。それがKOHHの歌である。まるで、会話の延長のような、音楽を通して、語りかけられているかのような錯覚を覚える。ラップというのはそもそも、「PIMP(ピンプ)と呼ばれる、売春婦を斡旋する客引きのしゃべり方が韻を踏んでいたことに起因するという説がある。この説が確かならば、ラップという表現は会話、コミュニケーションに端を発していることになるが、定説になぞらえるとKOHHの歌は限りなく原始的で、だからこそ既存にない新しささえも感じさせてくれるのではないだろうか。

成功の影に、318を主とするGUNSMITH PRODUCTIONという才能の受け皿があったことも大きな要因である。KOHHという個性を最大限に引き出すクリエイティビティとの邂逅によって、プリミティブとオルタナティブのハーフとも言える時代の寵児を生んだ。がちがちに固い韻を踏むこともせず、フロウも曲単位で変化していく。純度の高いヒップホップでありながら、ハードコアパンクのようなシャウトやパフォーマンスをする。ライブではモッシュピットが発生し、オーディエンスは熱狂の渦に叩き込まれる。言わずもがな、シーンに与えた影響は大きい。リズムに乗せて手を上げたり、身体を揺らしてダンスすることがヒップホップアーティストのライブの主流であったヨコ乗りの文化に、モッシュ、ダイブ、シャウトといった、すでにアメリカのラッパーたちにとってメインストリームとなっていたタテ乗りのトラップ、パンクのスタイルをいち早く日本に持ち込んだのだ。KOHH以降の後出のアーティストにそれは反映され今では、日本においてもスタンダードとなっている。ファッションでいうところのトレンドを確立したといえるだろう。加えて、彼の放つ、洗練された日本語は、世界各地に伝染しファンコミュニティを形成している。ライブで、日本語が欧米各国のクラブやライブハウスにこだまするのだ。僕らが洋楽の歌詞を理解せず、発音だけを真似して口ずさむその逆。歌詞がシンプルゆえに、多様な人種がKOHHの言葉を真似て、日本語を熱唱するという極めて希有な現象を巻き起こしている。アルバム「DARTⅡ」は海外のチャートを駆け上がった。到底、日本というくくりには収まらない。ワールドワイドに活躍するアーティストとなったのだ。

最新のミックステープ「YELLOW T△PE4」に収録されている「働かずに食う」では

言葉なんて音だただの音だ
音はただの遊びただの音楽

KOHH 働かずに食う(I Don't Work)

と言い放つ。(この曲は働く、働いているという概念すらポジティブに放棄している。)言葉に対し一切の執着心を持っていない。元来、口にする言葉が孕んでいる、偽善的な美徳は皆無である。そして言葉と声も音楽の一部だと割り切る。誰にでも分かる言葉で、誰にでも伝わる歌(歌詞への共感ではなく言葉が音として伝わる歌)こそが、本来、自己表現以上に、優先されるべきではないかとすら思えてくる潔さだ。しかし、文章にしろ歌詞にしろ、分かりやすく書くというのは一番難しい。KOHHはそれを地でいく。誰にでもは当てはまらない歌を、誰にでも伝わる言葉で歌う。そのシンプルさは個性となり、なんでもない言葉が芸術性を帯びる。音楽的な造詣の深さがありながら、昨年のPPAPのバズり方も同様に「誰にでも分かる言葉」で「誰もが歌える(真似できる)曲」という要素がトリガーとなったのではないだろうか。(さかのぼれば、歌ではないがドリフターズの荒井注も然り)

日本のヒップホップにメゾンファッションを持ち込んだとか宇多田ヒカルもその才能をフックアップした。というのは周知の事実であるが、それはKOHHを説明する際のオプションの一つに過ぎない。(実際すごいことだがあくまでもKOHHが勝ち取った付加価値である)

SNSやいくつかのMVなどでは、北区王子の仲間たちと無邪気にはしゃぐ姿や昔の写真を時折見かけることがある。そこにはKOHHではなく千葉 雄喜(ちば ゆうき)本来の変わらない純粋さがうかがえる。そんなKOHHが僕らの住む地元にもやってくるという。出来ることなら会って一言でも話がしてみたいとさえ願っている。僕は僕の、地元のやつらと「結局地元」を生で聴くことが出来るのか。今からすでに楽しみで仕方がない。

人の悪口言わない
言いたいなら勝手に言ったらいい (いいよ)
言うやつらはださい (ださすぎ)

マジでNo, no, no

結局地元の男達が本当の友達だけど No homo

東京都 王子駅にある「ロンドン」と

イギリスのロンドンの方も行ってきた (Yes)

元々 貧乏人だったけど良い調子の今

俺だけじゃなくて みんなが幸せ

そうならいい 嫌なことよりいいことを話せ

結局地元
海外とか行ってみても楽しいのは結局地元
結局地元

KOHH Paris/結局地元feat.Y’s


ジャンプの伝説的漫画、「世紀末リーダー伝たけし」を推している点もKOHHの素晴らしさであり見逃せない点である。小次郎のタトゥーやダイヤモンドのリーダーバッヂネックレスなど最高にクールで、北区王子のユースカルチャーを象徴するリーダー的存在にふさわしい。


KOHH Mitsuoka より

(遊)TATOMI ENTERTAINMENT prezents TATOMIハイランド
日時:2017年1月29日(日)
開場 17:00 開演 18:00
会場 :SPACE101(甲府)
山梨県甲府市中央1-3-7甲府101ビル2F
◼︎チケットの購入はこちら
ローチケHMV
https://goo.gl/aOOOLB
Lコード73653
問合せ :
055-225-2511(スペース101)

KOHH OFFICIAL WEBSITE

やばいっす.com