愛だろ、愛
ギャラリー型スーベニアショップ「岡野弥生商店」
吉原生まれ、吉原育ちの土産商 岡野弥生がデザインする “粋な江戸土産” を掲げるブランド「新吉原」のショップ。
先日終了してしまったが、兼子真一による四十八手を題材とした個展「the Cople」に行ってきた。
勢いのある線、流れるように描かれたその線は、竹筆に墨をつけ、一気に書き上げられている。そうして描きあげられた絵には本来性行為をする時の艶めかしさのような質感はもとよりその行為の動きを感じることができた。
会場には四十八手の作品以外にもともと専門だという男女の手を模した彫刻、縦横1メートルほどの大きな作品なども飾られており、入り口にはこの作品を作るにあたって集められた資料がいくつか置かれていた。これがまた面白い!春画の手足の部分だけを集めた兼子さん独自の資料で今まで自分の中では注目することのなかった春画の艶やかさや愛情なんてものを感じられた。
「手に足に相手を想う気持ちが表れてなんて色っぽいんだ」と。
下絵というか、ラフ画の状態の絵も見ることができたのだが、それはそれで簡素化された体や表情の滑稽さや面白さという意味で作品として楽しめるものだった。
四十八手の前に、会場にいる方達との会話から改めて知ることができたのだが、当時の春画というのは、嫁入り道具に忍ばせたり、お守りとして懐に持っていたり、縁起を担いで勝ち絵として持たれたり、描かれた着物にはスポンサーの名入りだったりと、今でいうエロ本やAVといったものとは少し違い、性の教科書であり、恋愛指南書であり、ファッション誌の要素があったいうことらしい。
ト書きや滑稽に誇張された性器、笑い絵と呼ばれるだけあって、面白さも大事な要素であったみたいだ。
春画を見て改めて感じたことがある。
だらしない女体は艶かしい。
ふくよかな女体からこそ生っぽさを感じることができるということ。
現代においては「だらしない」という言葉にまとめられてしまうのかもしれないが、少し丸みを帯びた腹や尻、垂れた乳などそこに色気や柔らかさ体温を感じることができるような気がした。
話が春画に向いてしまったが、主は四十八手である。
僕の頭の中にある四十八手というのは、まぁなんというか性行為における体位のことだ。
それは間違いではないし、何年か前にAV男優である吉村卓が編み出した「ヨシムラ」によって現在四十九手あるということになっている。
この話は完全にポルノな話なのでやめておこう、また話が逸れてしまう前に、、、
当時、恋愛指南書という面を持つ中で男女の出会い(一目惚れや手繋ぎ)からSMまでが順をなして、四十八手としていたという話を聞いた。(もうそれはhow to本である)
この話を聞いたあたりで僕の頭の中は、色々な意味を知っても拭いきれずにいた「エロ本」としての思考が薄らいで、淡くも楽しい少女漫画的なニュアンスあるんじゃない?という思考が生まれた。
事実、描かれている手の中には挿入していないものもあり全てが挿入時の体位というわけではなかった。
書いてすぐ手のひらを返すようだが、当然四十八手の基本は「エロ」である。書き方がバカっぽいのが自分自身残念でならないが、そこは覆らないのではないかなと、、、
一つひとつは解説できないが紐を使って女性を縛り上げるものや、女性の中で男根を回転させるものなど趣向が丸見えの技のオンパレード、全部できたら技のデパート舞の海だね。
(ちなみに相撲の決まり手も当初は四十八手で、48という数字にも意味があることがわかる)
岡野弥生商店と同時開催で同じ浅草にある「カストリ書房」にも兼子さんの作品が展示されていた。
ここでの滞在は短くなってしまったけど、春画、昭和のポルノなど俗物の本がたくさんあり、なんとなく一冊は買って帰ってしまいそうになる面白さがあったので今度はゆっくり探しに行きたい。
浅草吉原。
ソープランドが立ち並ぶ通り、春画が描かれた当時の大らかさを思うと、今夜も男女が枕を交わして行為に勤しむ、そんな想像が帰り道の吉原を少し楽しく映し出して、そのままネオン光る路地に消えそうになった。
ちなみに言っておくけど、僕は大らかで開放的な性行為もいいと思うけど、何かに隠れて恥じらってする性行為っていうのもとてもいいと思うよ、うん。
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